福崎町は、播州または播磨の国と呼ばれた兵庫県南西部に位置し、古くは東西と南北、それぞれを結ぶ街道が交差する交通の要衝として栄えた町です。
昭和31年5月3日、田原村、八千種村、旧福崎町の1町2村が合併して現在の形となったいまも、南北にはJR播但線と播但連絡道路、国道312号線が、東西には中国自動車道と県道三木宍粟線が走り、人や物が流れる“動脈”であることに変わりありません。その一方で、周囲を緑の山々に囲まれ、中央部には清流市川が流れる、豊かな風土と歴史の遺産に恵まれた田園都市でもあります。また、人口2万人足らずの小さな町にもかかわらず、多くの偉人を生んだ“学問・芸術文化のふるさと”であることも、町民の大きな誇りとなっています。
吉識雅夫(よしき・まさお)は、船舶工学の雄。氏がおられなければ大型タンカーの造船技術は何年、何十年も遅れていたかもしれず、石油資源のない我が国においてその功績は測ることができません。
そして柳田國男(やなぎた・くにお)。いうまでもなく『遠野物語』など著作で知られる日本の民俗学*の父が生を受け、幼年期を過ごした町が福崎町なのです。後年、柳田國男はこう記しています。「自分の故郷はごく平凡な風景だが、日本にも稀なよい土地だった」と。
※民俗学とは・・・
民間伝承(ならわし、しきたり、言い伝えなど)の調査を通して、民族文化(主に一般庶民の生活・文化)の発展の歴史を研究する学問。名もなき人々が築き上げてきた文化が、どのように表現され、どのような形で存在し、どう推移してきたのかを探求する「もう一つの歴史学」。
民俗学の父、柳田國男がいなければ、この世に『日本昔話』も『ゲゲゲの鬼太郎』も、さらには『ポケモン』や『妖怪ウォッチ』も生まれていなかったかもしれません。それほどまでに、柳田國男が後世に与えた影響は大きいのです。
柳田以前、全国各地に残された民話や伝承は体系づけられておらず、極論すれば “噂話や世間話” の域を出ることはありませんでした。柳田國男が全国を周り、八百万の神(やおよろず=万物に宿る神々)のみならず、妖怪や物の怪にまつわる言い伝えまで “文学” に昇華させたことによって、現代を生きる私たちにも “見えざるもの” の存在を知ることができているのです(ちなみに芥川龍之介の小説『河童』も、柳田國男の影響で生まれたと本人が語っているそうです)。
有名な『遠野物語』をはじめ『妖怪談義』『日本の昔話』『一目小僧その他』など、数多くの著作を残した柳田國男ですが、彼が初めて “人ならざるもの” と “出会った” 場所こそ、ふるさとである福崎の地でした。柳田國男の回想録『故郷七十年』に、以下の記載があります。
辻川あたりでは河童はガタロというが、ずいぶんいたずらをするものであった。子どものころに、市川で泳いでいるとお尻をぬかれるという話がよくあった。それが河童の特徴なわけで、私らの子ども仲間でもその犠牲になったものが多かった。毎夏一人ぐらいは、尻を抜かれて水死した話を耳にしたものである。市川の川っぷちに駒ヶ岩というのがある。今は小さくなって頭だけしか見えていないが、昔はずいぶん大きかった。・・・鰻のたくさんとれる所で、枝釣りをよくしたものであった。
(『故郷七十年』より引用)
清流市川で水遊びし、鈴ノ森の丘を駆け回り、山の向こうの“遠い世界”に思いを馳せて育った柳田少年は、自然の中に存在する美しさと同時に、厳しさや畏れも学んだことでしょう。
「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」という『遠野物語』の有名な一節があります。近代化への歩を進める人間社会に、自然界への畏敬の念を忘れてはならないと、警鐘を鳴らしていたのかもしれません。
私たち福崎町は、柳田國男が生涯を懸けて伝えた“万物の語りかけ”に、耳を傾けられる地であり続けたいと思っています。